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かな作品を見た方から「なぜ意味と全く関係の無い当て字が書かれているの?」と言う質問がよくあります。確かに杉岡華邨作品キャプションを見ると、ひらがなの横に漢字が振られていますが、意味としては通じない場合がほとんどです。
例えば、「大和三山」(昭和44年)の場合、「可久や万登 見ゝ那志山と あ日しと支 多ちて身尓こし 移奈三九尓八ら」とあります。これは万葉集の歌ですが、読み下しは「香具山と 耳成山と 闘(あ)ひし時 立ちて見に来し 印南国原(いなみくにはら)」(新日本古典集成 萬葉集一)となり、原文では「高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美国波良」(西本願寺本)となります。確かに、読み下しとも原文とも違う文字が使われていることが分かります。
ここに書かれているのは表意文字の「漢字」の「音」だけを使って、日本語を標記するため「表音文字」として独自の進化をした「ひらがな」です。音を表す仮名文字なので、字母となる漢字の「意味」を表す部分は失われているため、「漢字」として意味を理解することはできません。
古代日本には文字は無く、中国から「漢字」が伝わり日本の文字文化が始まります。しかし、漢文のままでは日本固有の言葉を表すことが出来ません。そこで、表意文字の漢字から「意味」を捨て去り、「音」だけを用いて日本語を表すようになります。例えば、3世紀頃編纂された魏志倭人伝に出てくる邪馬台国の女王「ヒミコ」は「卑弥呼」というように「音」だけで漢字を当てられています。このように、地名、人名などの固有名詞を中心に漢字の表音表記が始まり、次第に訓読みもされるようになりました。
万葉集では固有名詞を中心にこうした漢字の用法がなされ、さらには、日本語の語順で書かれるようになります。前出の歌でも「耳梨山」が「みみなしやま」や「相之時」が「あひしとき」と訓読みや日本語の語順が用いられています。これを「万葉仮名」と言います。
万葉仮名では現在私たちが使っている平仮名、片仮名と違い、1音1字に整理統合されておらず、「あ」を表す主なものだけでも安・阿・愛・悪・亜、「か」なら、加・可・閑・我・駕・歌・哥・賀・香・家・嘉・霞・荷・歟・謌・佳など数多くがあります。万葉集では、漢文の文法を無視し、日本語として漢字を音読み、訓読みで併用して書かれていますので、例えば大宰府少弐小野老朝臣歌「あをによし、ならのみやこは、さくはなの、にほふがごとく、いまさかりなり」は「青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有」(西本願寺本)となります。この歌の中でも、「者」は「は」を表す表音文字です。
注)万葉集の読み下しに関しては、当時の読み方は残っておらず、後世の研究で諸説があります。
奈良時代は、万葉仮名を楷書・行書で書くのが普通でしたが、平安時代になるとこの楷書・行書で書かれた万葉仮名を「男手(おとこで)」と呼ぶようになります。主に男性が用いた文字、正式な文字と考えられます。その一方で、草書体を用いて万葉仮名を書き表す「草(さう)」または「草仮名」が男女兼用の文字として広まります。さらに平安時代の女性は、漢文・漢詩などの中国文化から遠ざけられ、正式な漢字の素養が無かったため、和歌や消息文を草仮名で書く際に、字母となる漢字にとらわれず自由奔放に書き崩しました。これが平安中期の美意識と結びつき「女手(おんなで)」または「かんな」と呼ばれる、いわゆる「かな(仮名)」が誕生します。
この「かな」は広義で言うところの平仮名です。当時の平仮名は万葉仮名の流れを汲むため、当然1音1字ではありませんでした。この多種多様な平仮名の繁雑さを解消するため、明治33(1900)年に発布された小学校令により、現在のような1音1字の平仮名が制定されます。このため、今日一般的に使用される平仮名以外の仮名のことを「変体仮名」と呼んでいます。小学校令発布以前の日本語表記では、漢字以外の仮名の部分には様々な文字が使われていたのです。
ちなみに片仮名は、草仮名由来の平仮名と異なり、万葉仮名の楷書の一部を取り、他の画を省略しているために「不完全な仮名」と言う意味です。漢文を訓読するための小符号として個々人が勝手に用いていたため、多種多様なものがありましたが、平安中期には近代風に統一され文字として独立しました。
杉岡華邨は「かな芸術」は文字を用いた造形美と考えました。そのため、空間や面、行の構成をより美しく見せるため同じ「音」の部分を異なる変体仮名で表現します。平安時代の貴族達も同様に、和歌や消息文を美しく見せるために様々な美的工夫を凝らし、数多くの変体仮名を併用していたわけです。
かな芸術の完成
漢の時代の中国では、文学や音楽、書は全て儒教に奉仕するものと考えられていました。しかし、六朝時代を迎えそれらは儒教に従属するものではなく、それぞれに価値があるものと考えられるようになりました。この風潮は唐の時代にも受け継がれ、日本にも伝えられます。奈良時代に王義之書道が隆盛を見たのは、日本でも書を芸術として愛好していた証拠と考えられています。
平安時代に入るとこの風潮はますます流行します。平安時代にできあがったかな文字は、和歌の興隆とともに変化していきます。古今和歌集で見ると、平安初期は唐風でしたが、六歌仙の時代に芽生えた優美な様式が古今集選者の時代から紀貫之を代表とする優美なかな書道へと繋がります。ただし、貫之の時代の歌はまだ堅く宛転(ゆるやかな曲線をえがいて曲がるさま)流麗さに欠けました。
古今集の後、後撰集を経て拾遺集に至り、和歌が流麗さを増すとともに、かな文字も流麗典雅な姿になります。寛弘期(平安中期、1004〜1012年)以降、かな書は流麗宛転さを増し、遊絲(はかないもの、薄いもののたとえ。かげろう)連綿という情趣豊かな連綿体(続け書き)と、空間美の極致である散らし書き(かな書における空間構成)を創造し、かな芸術を完成させました。
参考文献:『かな書き入門』杉岡華邨 保育社 1980年